" />

テレビ

kitajinの観てきたスポーツ

改めましてkitajinと申します。ここではボクが過去に観てきたスポーツについて語りたいと思います。ボクが子供の頃、テレビで観ていたスポーツといえば、野球とプロレスです。野球で言えば巨人ファンで、プロレスといえば全日本プロレスを観ていました。その後、1993年にJリーグが始まり、一時期はブームに乗るようにサッカーをよく観るようになり、同じころブームになっていたK-1なども観るようになります。

ktphotographyによるPixabayからの画像
ktphotographyによるPixabayからの画像

野球

巨人

子供の頃から観ていたスポーツで一番に上がるのがやはり野球であり、その中でもテレビの主役は巨人軍でした。

当たり前のようにファンになり、グローブを買ってもらい、プロ野球選手になることを夢見ていました。

当時はグローブの他に各球団の帽子が流行し、巨人軍のマークの入った帽子が欲しかったけど買ってもらった記憶はありません。

巨人の中でも特にファンだったのが原選手(現巨人軍監督)です。ベタではありますが巨人で四番に憧れていました。

その後、原選手が現役を引退して、数年後、巨人の監督になり、第一次原政権時代まで巨人を応援していましたが、その後はテレビを観なくなるのと同時に野球も観なくなりました。

思い出の映像 ヤクルト戦の原選手逆転ホームラン 👇

大リーグ

ボクの子供の頃は、大リーグと日本のプロ野球ではレベルの差というモノがあり、日本人が大リーグで活躍するという事は夢物語でした。

それを物語るエピソードとして、最も象徴的とされるのがヤクルトに入団した当時バリバリの現役大リーガーであるボブ・ホーナーです。

彼は、開幕から4試合で11打数7安打、本塁打6というとんでもないインパクトを与え、日本の野球とメジャーの差をまざまざと見せつけました。

それから時が経ち、1995年に野茂英雄が大リーグ・ロサンゼルスドジャースと契約を結びメジャーデビューを果たします。

野茂投手は、一年目から大活躍をしてくれて、日米で「NOMOブーム」が起こします。

そこから多くの選手がアメリカへと渡り、現在のような活躍を見せてくれています。

思い出の映像 イチロー選手のメジャー新記録の安打 👇

プロレス

全日本プロレス

子供の頃のプロレスといえば、全日本と新日本プロレスです。

その中でボクを夢中にしてくれたのは、二代目タイガーマスク(三沢光晴・当時は正体を知らずに後の四天王ブームの時に知った)であり、ジャンボ鶴田・長州力などの選手たちでした。

また当時は外国人レスラーなども多く来日して、盛り上げてくれました。

その後、全日プロレスを離れますが、再びテレビで観始めたのが深夜の時間帯で放映されていたころです。

三沢光晴・川田利明・小橋健太・田上明の「プロレス四天王」と呼ばれる四人と、スタンハンセンやスティーブ・ウィリアムス などの外国人選手がしのぎを削っていた時期でした。

思い出の試合 三沢光晴、小橋健太組VS川田利明、田上明組 👇

新日本プロレス

新日といえば、何と言ってもアントニオ猪木でしょう。

しかし、子供時代はわずかに猪木のブームに乗れずに通り過ぎてしまいました。

それでも、同世代のハルクホーガンの方には乗っかってハルクホーガンのファンでした。

猪木VSホーガン戦を観ていたはずなのに、記憶に残っているのはハルクホーガンだけだったことからもわかります。

その後、新日本プロレスの記憶はずいぶん経って、1990年代、闘魂三銃士と呼ばれる武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋らが活躍していた時期に再び観るようになった。

特に橋本選手が『破壊王』と呼ばれ、IWGP王者に君臨していた頃はよく観ていました。

橋本VS小川直哉戦は、日本中を熱狂させたカードとなり、その後のPRIDEなどの総合格闘技ブームへと続いていきます。

思い出の映像 橋本真也選手 👇

サッカー

Jリーグ

Jリーグが生まれた背景には、日本サッカーのレベルを底上げすると言い悲願とワールドカップ出場を果たすために国内のサッカーのレベルを底上げさせる目的がありました。

1986年6月のメキシコワールドカップ開催中の会見で、FIFAの第7代会長・ジョアン・アヴェランジェから、1998年か2002年をアジアでのFIFAワールドカップ最初の開催地として日本が念頭にあるような示唆を得て、1989年11月、正式にFIFAに2002 FIFAワールドカップ日本開催の意思を伝える。日本がワールドカップを開催するにふさわしい国であることを証明するためにも、FIFAの要求を満たすスタジアムの建設などの他、日本代表のワールドカップ初出場を念頭に置いた強化とそれに伴うプロリーグ創設、成功が不可欠となった。

Wikipedia

1993年にJリーグが開幕して日本中に一大ブームを起こしたころ、ボクも地元清水エスパルスを応援していました。

開幕した当初は、全10チームでの総当たり戦であり、現在の(J1、18・J2、22・J3、18)チームの入れ替えシステムを思うと年月の長さを感じさせます。

その間、さまざまな選手、スタープレーヤーが生まれたが、今も現役でいられる三浦知良選手がJリーグ初代MVPであることを考えると感慨深いものがあります。

思い出の映像 Jリーグが開幕 👇

日本代表

1993年にJリーグが開幕し同じ年、日本を熱狂させたのはサッカーの日本代表ではないでしょうか。

日本代表はワールドカップ出場をかけ、アジア最終予選、最終戦にイラクと対戦します。

そしてロスタイムまで勝っており、出場をあと一歩のところまで引き寄せた時、惜しくも出場を逃してしまいました。

これが有名なドーハの悲劇というモノです。

その後、1998年には見事、悲願のワールドカップ初出場を果たし、更に四年後の2002年には自国での開催をして、決勝トーナメントを進出して、素晴らしい躍進を果たしました。

そして、2022年まで七大会連続でワールドカップに出場できたのは、ドーハの悲劇があったからではないでしょうか。

思い出の映像 ドーハの悲劇 👇

格闘技

K-1

K」は「空手」、「キックボクシング」、「カンフー」、「拳法」などの立ち技格闘技あるいは「格闘技」そのもの、そして「KING」の頭文字を意味し、1はナンバーワンを意味しており、空手やキックボクシングなどの打撃系立ち技格闘技の世界一の最強の格闘者を決める大会を行うというのが設立のコンセプトである。

Wikipedia

K-1もまた1993年に第一回大会が開催されており、そこから現在まで様々な変化を遂げて続く格闘技イベントです。

初期の頃は、海外から呼ばれたヘビー級の選手たちがしのぎを削り、そこから多くのスター選手が生まれました。

初期の頃はピーターアーツやマイクベルナルド、アンディーフグ、アーネストホースとなどが熱戦を繰り広げ、大きな選手たちによる一撃必殺のKOシーンの迫力にテレビの前で熱中したものでした。

2000年代にはいると、中量級、軽量級とクラスわけがされるようになり、そこから魔裟斗選手を始めとする日本人のスター選手も生まれました。

またK-1と他団体、総合格闘技との対決もあり、大晦日を彩るテレビの風物詩にもなりました。

思い出の映像 ピーターアーツVSジュロムレバンナ 👇

PRIDE

そもそもPRIDEは、高田延彦とヒクソン・グレイシーの試合を実現するためだけに立ち上げられたイベントであった。

Wikipedia

とあるように、PRIDEは1997年に始まる格闘技イベントです。

しかし、ボクが観るようになったPRIDEは、2000年代に入ってからで、特に大晦日の「PRIDE 男祭り」などをよく観ていました。

日本中が熱狂したPRIDEは、ヘビー重量級、ミドル中量級、ウェルター級、ライト級と四つのクラスに分かれており、それぞれに強い選手がひしめいてスター選手がその中から数多くのスター選手が生まれました。

特にエメリヤーエンコ・ヒョードル選手など、絶対王者として君臨しており、彼の圧倒的強さとキャラクターに熱中したものです。

その後、様々な経緯があり、フジテレビが放送を打ち切り、興行主が変わったりして、最終的には消滅してしまったようです。

思い出の映像 『PRIDE 男祭り』 👇

まとめ

駆け足で振り返ってみましたが、ボクがテレビで観ていた、子供の頃から2000年代前半までは、様々なスポーツ興行が生まれて、活気のある時代だったことが分かります。それだけ日本に元気があった時代だと思うと、今後の日本で同じようにスポーツでのブームを起こせるのかな?と考えさせられました。

 〇 関連記事

-テレビ