僕は20年近く前に七年間、パチンコ店で働いていたことがあります 。その期間中に出会った人たちはとても愉快な人たちばかり、そこで起きた出来事は今でも忘れられません。こんなにもいろんな人種がいるということを知ったのもパチンコ店に勤めていたからです。20年前だからもう時効だと思うので、これからその話をしたいと思います 。内容が少し過激なので気分を害されるかもしれないので覚悟してください。それではどうぞ。

パチンコ屋での出来事 変なお客さん編
てんかん患者
てんかんとは脳病気で、急に意識が飛んでしまう厄介な病気です。特に運転中にてんかんが起こると事故を起こしたりもします。
その人がてんかん患者だというのは、客からの話で伝わってきました。田舎の小さなパチンコ屋では、近所から通う客が多く、客同士の素性がすぐに分かってしまうのです。
年齢は40代~50代くらいでしょうか。ガリガリに痩せていて歩くのも覚束なく、いつも同じ服を着ていました。今思うと彼は、てんかんだけでなく精神病も患っていたのかもしれません。
そんな彼がある日、うんこを漏らしているにもかかわらず店に来て、パチンコを打ち始めました。手や服についたうんこを気にもとめずに、台や玉を握ってそこら中、うんこまみれになったのです。
常連客がすぐに気づき、訴えて来たので退店してもらいました。その後、彼の座った台と椅子をキレイに清掃したのを覚えています。
アル中
こちらも下ネタなんですけど、この方は六十代のおばあさんでしたが、お酒が好きでいつも酔っていました。
家が近所なので歩いて来店してましたが、その足取りは覚束なく、話しかけてもいつもぼんやりとしており、反応もはっきりとしませんでした。
そんなある日、女性のお客さんの訴えから、長時間、誰かがトイレに閉じこもり、出てこない人がいるというのです。そこで、その時間の責任者である副主任が、女子トイレのドアをよじ登って中を見ると、そこには倒れたそのアル中おばあさんが倒れていたのです。
しかも、下半身を丸出しにして、便器からうんこをはみ出して、その上に倒れていたとのことです。
副主任はトイレの内側に入り、中から鍵を開けて救急車を呼び、そのお婆さんは搬送されていきました。後に、 たった一人の女性店員が後処理を頼まれて、ブツブツ文句を言いながらトイレを掃除していました。
すぐキレる客
何かにつけて高圧的な態度をとり、少しでも思い通りにいかないと悪態をつく人間はどこにでもいるものです。
パチンコ店に入りたて頃は、まだ気が小さく、その人にすごくビビっていたのですが、だんだん慣れてくるとその人はただ、口が悪いだけと気が付きました。ですので、他の店員同様に舐めたような態度をとるようになりました。
すぐキレると言っても暴力を振るう訳ではないので、大したことはありません。そして、もう二度と来ないと言いつつ数日後にはまた平気な顔してやってくる、そんな可愛らしいお客さんでした。
違法駐車
ある時、駐車場に1台の車が止まっているということを、これまた近所に暮らす常連客が気づきました。
その店の駐車場はゲートなどはなく、だだっ広い道路に面した駐車場だったので、出入りが自由でした。
当時はまだお客がたくさんいたので、どの客がその車の持ち主かを知ることはなかなかできなかったのですが、何しろ過半数が常連客の店、最近よく見かけるようになった客を絞り込めば、すぐにどの客がその車の持ち主が分かるようになり、警察がやってきてどこかに連れて行きました。
ヤンキー軍団
20年前くらい前だと、まだまだヤンキー全盛期時代であり、集団で高校生から20歳くらいの不良たちが店にやってきては、我が物顔で好き勝手やって帰っていくということが続きました。
彼らは自分の利益に貪欲で、特になることは人の迷惑を顧みずに行い、また集団でやってくるためにたちが悪く、悪い情報はすぐに伝わるのです。
当時、『レレレにおまかせ』という羽モノ台があり、玉が役物に入るとVゾーンにタイミングよく通過する時に台を叩くという違反が横行していました。御多分に漏れず、その不良集団も台を叩いては台の衝撃関知ランプを点灯させていました。
注意しても懲りることがなく、また来る彼らにずいぶんと手こずった思い出がありましたが、1円パチンコが出始めた頃からその店が衰退しはじめて、勝てなくなったので姿を見ることが無くなりました。
新台入替あらし
パチンコ全盛期の時代、新台入替と言うと群雄割拠、客と客、客と店員との戦いのようなものでした。
何しろ、新台に座れればほぼ勝てるのです。熱くなって、新台を取りに行くのも分かります。しかし、それも一人でならいいのですが、当時は、イカツイ連中が、徒党を組み、各店舗の新台入替を目当てに他の地域からやってきたりもしました。それを我々の間では、新台あらしと呼んでおり、嫌っていました。
彼らは徒党を組んで、やりたい放題で、一人が早い時間に先頭に並び、入替30分くらい前になると、何処からともなく十人近い男が現れて、れて、列に割り込むのです。
さらに、新台を占拠するためにライターを複数の上皿に乗せておいたりして、全台、荒らしの客が新台を打っていたなんてこともありました。
店側としては、普段からお金を使ってくれる地元のお客さんを勝たせたいのに、そういう連中が来るので、ずいぶんと対策を講じましたが、店が衰退するとともに消えてしまいました。
老人天国
田舎の小さなパチンコ屋といえば常連客は皆、年寄りばかりでほとんど近所の歩いてくるような年寄りばかりです。
そんな中でも僕の記憶に一番残っているのは、お小遣いをくれたおばあさんでした。
すごく表情が柔らかい優しそうな人で、亡くなった旦那さんが公務員だったようで、公務員年金をもらっていて、相当、お金があったようです。気前がよくて、勝っても負けてもいつもにこにこしながらやってきて、みんなには内緒と言ってボクにお小遣いをくれました。
しかし、常連意識が強く、少しでも知らない人が出していると、ものすごい形相で睨んでいました。
昔から通っている老人が多かったせいか、他のご老人たちも御多分に漏れず、常連意識が強い人たちばかりでした。
生活保護
生活保護を受けながらパチンコを打ってる人がいました。
その人はもともとは他のパチンコ店で働いていたのですが、年齢からか退職となり、そこから仕事が無くて生活保護を受けるようになったようです。
パチンコ店のすぐ隣の借家に暮らしていました。年齢はもう60代過ぎで、一人暮らし。身長が高く、昔はイケメンだったかもしれません。しかし、人を寄せ付けない雰囲気のある人でした。
生活保護を受けながら、パチンコを打っていると近所のご老人たちが陰口をたたいていましたが、ある日、ぷっつり来なくなったのです。どうしてるかと近所の人も気になっていたようでした。
しばらくするとあまりに姿を見かけないということから、警察がやってきて、その人が布団の中で昏睡状態でいるのを発見しました。何でも、もう何日も飯も食べておらず、餓死寸前だったようです。
パチンコ屋での出来事 従業員編
飲んだくれ
そのパチンコ店に働き出して最初に主任だった五十代くらいのおじさんの話です。
その人は、大の酒好きで、毎日のようにお酒を飲み、近所の飲み屋やスナックでも有名な人のようでした。しかし、酒により遅刻や欠勤をすることもよくあり、しかもパチンコ店の上に住んでおり、休んでもすぐに家に押しかけられるなど、言い訳もできない状況でした。
年々、酒癖が悪くなり、仕事を欠勤することが増えたので、どんどん降格していき、やめる頃には役職がついてなかったです。
そして、ついに無断欠勤が社長の逆鱗に触れ、社長自ら寮に訪ねると寮の中がゴミ屋敷だったそうで、それにキレた社長が出ていけと、その日の内にクビにして追い出してしまいました。
玉を抜くおばさん店員
勤めていたパチンコ店はカウンターのところに玉を流し込むジェットカウンターとなっており、ドル箱をそこまで運んで、玉を流し込むのですが、お客の出した玉をカウンターのおばさんが、客の目を盗んで玉を早く流し込むためかき混ぜる動作の時に掴んで、それをカウンターの下に置いてある箱に入れていたのです。
その景品のおばさんはもう何十年もその店に働いており、我が物顔でのさばっていました。気に入らないお客がいると、そのジェットカウンターで玉をネコババしたり、恐らく別の悪事もしていたでしょう。
すぐ止めるやつ
その時代のパチンコ店は全盛期で、なんだかんだ言ってお客さんが来ていたおかげで、従業員が足りないことがままありました。
募集をかけるのですが、田舎の小さなホールの為か、なかなかいい人材が入ってこずに、中にはとても社会人とは思えない行動をとる人間も数多くおり、その中の何人かを紹介したいと思います。
まずは、すぐ止めたヤツです。彼が働き始めたのは 1日前でした。上司である副主任に怒られているの前の日に見て、その次の日もまた何かをやらかして怒られていました。
そして、休憩時間、あの副主任ムカつくとボクに言ってきたのを最後に、昼休憩が入った彼は二度と戻ってくることはありませんでした。
住み込み夫婦連れ
次に紹介するのは、どこか遠くの地域から夫婦でやってきて、店舗の二階にある寮に住むことになったのヤンキー崩れといった夫婦です。
どこか、危険なニオイがして、異質な雰囲気を漂わせていました。そして、ある日、上記にあるヤンキー軍団の一人と喧嘩をして、それをきっかけに辞めていきました。
寮の住人
寮があるということで、随分多くの従業員は来ては辞めて行きました。
寮と言っても、店舗の上にある店舗と同様のスペースにプレハブを建ててあるだけです。
電気、水道、ガスは確か通っていたと思いますが、風呂、トイレは共同でした。あまり入ったことがないのでうろ覚えです。
そこに入っているのは、流れ者か、さもなくば何らかの事情がある人たちです。
先に書いた酒好きの主任以外、後二人、長い期間暮らしている店員がいました。一人は神戸からの流れ者で、元々は九州の人間だったようです。もう一人は、地元ですが、親と折り合いが悪いボクと同年代の男でした。
彼は辞める直前に副主任に昇格したのですが、臨時に、休みが取れないと言われて辞めてしまいました。
その店は、いつもギリギリの従業員で回していたので、定休日と各自が決められた日しか休んではいけないというブラックなところが有り、融通が利かないおかしな店でしたが、即辞めするその男もかなり極端でした。
掃除好き
普通、パチンコ店と言えば、掃除は外注するか、さもなくば専門の人間を雇うのですが、この店はそのお金をケチり、店員にやらせていました。店の開始時と終了時に近所のおばさんが来ていましたが、それ以外は全て従業員です。
そんな中で、特に掃除に力を入れている従業員がいました。ボクが一番長くお世話になった先輩なのですが、後に店が暇になってくると、掃除熱が加速していき、毎日、営業中にもかかわらずどこでも掃除をさせられました。
当時はタバコが店内で吸えたので、タバコのヤニがものすごく、それを天井にある大型の空気清浄機が吸い上げていたのですが、そのフィルターを毎週、特殊な洗剤を付けて洗っていました。
他にも窓拭きやクモの巣取り パチンコ台の清掃などもさせられました。その店は、台持ちがよく、同じ台が何年もあり、部品が壊れてもメーカーに注文して交換して営業していたくらいです。
当然、台が汚れてきます。
昔のパチンコは玉を手づかみで受け皿に入れるので、ものすごい手垢がつきます。それが長い年月をかけてパチンコ台のあらゆるところに付着して、タバコを煙などと相待って黒い垢状の汚れが付着するのです。
それをコットンを専用のハサミ棒で挟んだ掃除具で掃除していくのでした。
泥棒
この人もまたとても変わっており、社会不適合者でした。
自分では元パチンコ店の店長をしていたことがあると言っていましたが、そんな風格がなく、ギャンブル狂いで、特に競艇が好きなようで、夜通し他県にまで協定をしに出掛けたりしていると嘯いていました。
そんな生活をしているせいか、様々なところに借金をしていたようで、ある日、ボクとその男と、女性のカウンターのおばさんの三人で営業していて、昼休憩に入ったのですが、最初のその男が休憩に入り、次にカウンターのおばさんが入ったのですが、そのおばさんがいきなり事務所から出てきて、ボクを呼ぶのです。そして、財布の中身が無くなっていると訴えるのでした。
そのおばさん曰く、その男が盗んだのだろう、というのですが、三人しかいないのに、バレるのに盗むか?と思ったのですが、事務所に入れるのは、僕たち三人、あと、弁当を届ける兄ちゃんだけ。
弁当屋の兄ちゃんが弁当を事務所に置きに来るわずかな時間で、その女性のロッカーを開けて、すぐにお金を抜くにはよほどラッキーでないと無理である。
何しろ、ボクやその男のロッカーは物色されていないのだから。
その店の事務所には防犯カメラのモニターが十台ぐらいあり、ボクが昼休憩の時にその男を見ていると、その男の挙動が明らかにおかしいのだった。
後に店長が問い詰めても否定していたが、借金取りからの催促の電話が掛かってきたりしたので、嫌疑不十分のまま、クビになった。
パチンコ屋の出来事 店編
イベント
パチンコのイベントと言えば何と言っても新台入替ではないでしょうか。
当時、新台入替は祭りのようなもので、お客さんはいつ新台入替が行われるかを今か今かと待ちわびたモノです。
そして、新台入替当日は、普段は朝9:00オープンに対し、昼12:00オープンで、熱心なお客さんなら、数時間前から店のドアの前で待ちます。
ボクが働いていた店では、スロットにモーニングが入っており、それも目当てにやって来るお客さんも多かったです。因みにモーニングとは、あらかじめ大当たり状態にしておくことを言います。
新台入替の前日の夜に従業員総出でパチスロを回して、大当たりフラグが立つまでり続けるという謎の行事がありました。しかも、レギュラーではダメなので ビッグで当たるように、レギュラーだった場合は消化しないといけませんでした。
各機種2台、ビックを仕込むまで、帰れないという半ば試練のような作業が待ち構えていたのです。
社長
パチンコ屋は経営者の色で色々変わるというのは当然のことですが、その店の社長はとてもセコイ人間でした。
先ほども話しましたが、掃除をする人を雇わずに従業員にやらせたり、ギリギリの人数でやっていたので欠勤も許しません。
パチンコ台もほとんど入れ替えることなく、十年選手が目白押しでした。そして、買っても中古台。新台入替の時も機械代をケチるために当時としては珍しく数台でした。しかも、系列店が一店舗あり、その店と交互に台を入れ替えて、さも、前回投入機を新台のように見せかけて経営をしていました。
中古台はよく故障していたので、部品を交換して何とかしのいでいました。
客を増やす努力より、どうにかして、経費を抑えて利益を出そうとするオーナーだったので、やはり時代の波についていけませんでした。
年々傾いていく店
ボクがパチンコ店に入社したころは、パチスロ4号機が全盛期時代で、アラジンAやサラリーマン金太郎などの爆裂AT機がホールを賑わしていたころでした。
しかし、あまりにギャンブル性が強いことと、その頃からパチンコによる様々な社会問題が起こり、ギャンブル性を抑えるように規制が入り、徐々にパチスロ機のゲーム性が変化していきます。
それでも、その後も吉宗や北斗の拳など、後に語り継がれる名機が出るのですが、それらも規制の対象となり、2007年頃には完全にホールから4号機が完全に無くなるとともにパチスロ人気も低迷していきます。
ちょうど、時期を重ねるように、パチンコ業界全体もどんどんと変化していきます。台の上に大当たり回数が表示されたり、回転数が分かるようになったのもこの頃です。
1円パチンコが出てきたり、等価交換が主流になったりと実力のない店舗では生き残れない時代へと突入します。
周りの店が変化に対応していくのに対し、ボクが働いていた店も徐々に変わっては行きましたが、変化による機械代を回収するのに一生懸命でとても還元できずにどんどん衰退していきました。
僕が止める 1年ぐらい前には、もうほとんどお客が来ない閑古鳥状態がかなり続いていましたが、
その後やめてからたまに見に行ったりしたんですが、 1円パチンコはやらなかったんですが 2円パチンコをやってました。
あと10円スロットと、中途半端なことはやって、なんとか延命をしていたようですが、まあそれも持たず、ボクが辞めた数年後に潰れてしまいました。
最後に
ボクがパチンコを始めた18の頃は、地域密着の小さな店が雨後の筍のようにたくさんありました。 どこかの金持ちが、気まぐれで作ったようなパチンコ店もたくさんあり、経営は酷いもので、客が入らず潰れる店も多々ありました。そんな中では、ボクが働いていた店はまともな方でしたが、それでも時代の波には勝てずに、失くなってしまいました。その店のことを思い出すと、パチンコのことだけでなく、時代背景を思い出し、ついには日本の凋落まで思いが向かっていきます。