僕が初めてパチンコを打ったのは18の時です。当時は麻雀物語という台が大人気で、その台を初めて打った時に大勝ちしたことがパチンコにハマるきっかけになりました。それから時を重ねて、様々なパチンコ・パチスロ台が出ては消えていきました。また台だけではなく、換金率やプリペイドシステム、規制などパチンコ店を取り巻く環境はこの30年で本当に大きく変わりました。ここでは、具体的にどのように変化したのかをこれからボクの視点ではありますが見ていきたいと思います。
パチンコの変化

現金機からCR機への変化
ボクがパチンコにハマりだした頃は、わざわざ500円硬貨にくずして、台の横に設置してある玉貸し機に500円を入れてました。
すると、玉が上のレーンから降りてきて、鉄でできた堰のようなもので止まっているのを手で押し上げると、玉が降りてきて掌に溜まるので、それを上皿におろして打ち始めたのでした。
それが、五百円を入れると自動に玉が上皿に流れるように誘導するプラスチックのホースのようなものが取り付けられるようになり、現在のようにボタン一つで、玉が上皿に流れでるようになりました。
このように、玉貸し機一つとってもパチンコ台は進化してきましたが、中でも一番大きな変化としては1990年代に導入された CR 機ではないでしょうか。
それまでパチンコといえば硬貨で玉を借りていたのを、券売機に売っているプリペイドを買って、そのプリペイドを台横のカードリーダーに差し込んでそこから、借りるようになったのです。
このプリペイドがなぜ導入されたというと、業界の不透明なお金の流れを透明化させるためと言われています。当時、パチンコ店は脱税のし放題であり、それを重く見たパチンコ遊技協会がプリペイドシステムを導入したのです。
CR の主な特徴としてはその出玉性能でした。大当たり1回につき、 3回の大当たりの権利を確保し、その内にもう一度、特定絵柄(奇数など)を引くと、また三回権利が復活するというものでした。
数珠つなぎ連チャンと言われる連チャンで、爆発的な出玉が出てギャンブル性が上がったことで、一気にパチンコ熱も上がることになります。
あまりにもギャンブル性が高くなりすぎたために、ギャンブル依存症や子供を車内に置き去りにするという事件が問題となり始めたのもこの頃からでした。
やはりパチンコやスロットの本質というのはギャンブルであり、如何に勝てるかというのが面白い基準であるということがよくわかります。
4号機から5号機への変化
CR 機に規制がかかると、今度はスロットに変化が起きます。4号機時代の到来です。
スロットの4号機時代は群雄割拠 爆裂AT機など ギャンブル性が極端に高まった時代でもあります。面白いもので CR 機が廃れていくのだと入れ替わるようにスロットが爆裂連チャン機が台頭するようになり、そうなると、ボクもいつのまにかパチンコからスロットへやる台が変わっていきました。
ボクが記憶にある中で、最初の頃に打っていた台は3号機時代のスーパープラネットです。略してスープラは、多彩なリーチ目やボーナス成立時のみに発動する特定絵柄などが人気の台です。
その後、ドリームセブンJRなどを経て、1992年に4号機時代に突入します。最初は大人しかった4号機ですが、徐々にその頭角を現して、2000年代に入ると、狂乱の時代に突入し、様々な問題を引き起こします。
特に爆裂AT機と言われた初代ゴッドや驚異の機械割:261.6%(設定6)の神輿など狂った時代でした。それらの影響からか、依存症になって消費者金融からお金を借りたり犯罪を犯す人が後を絶たなかったことから4号機に規制が入り、終焉。5号機へと突入するのでした。
そして、現在は5号機も終わりを迎え、2018年から6号機時代へと突入したのでした。
店の変化
ボクが子供の頃のパチンコと言えば、景品にチョコレートなどお菓子を大量にゲットしてきた近所の兄ちゃんを羨ましく思っていたことを覚えています。
それから時が経ち、十八になった頃、友人に誘われて初めてパチンコ店に入った頃には既にパチンコ人気に火が付き始めていたころでした。
その後、CR 機が導入された頃からパチンコ店はマスコミにも取り上げられるようになり、その地位を高めていきました。マスコミの効果があったのか、パチンコ業界は飛躍的に業績を伸ばして行きました。
この頃から、パチンコ店には勝ち組と負け組の差が大きく分かれるようになるのです。勝ち組はどんどん店舗数を増やしていき、時流に乗って全国に展開する会社も出ていきます。
元々、パチンコ店というのは地域密着型であり、こじんまりとした店が駅の近くにポツリとあったのですが、パチンコ人気に火が付くと、雨後の筍のようにパチンコ店を経営する人が増えたのですが、素人経営の為か、ヒドイ店が多くて、ボッタくりのように出ない店も数多くありました。
また、立地も考えずにとりあえず建てた店や郊外なのに、駐車場が狭かったり、何もないところに立てたりしてそんな店が瞬く間に淘汰されていったのでした。
また店内の様子も大きく様変わりしていきました。
先ども挙げたようにパチンコ台の横にあるサンドの変化は、両替機を使って玉を硬貨で交換していたのが、現在では、お札を入れてそこから一定数の玉を出すと言う方法に変わりました。
また大当たり回数なども、昔はお手製の札を当たった回数だけ台の上のスペースに札を付けていくという至ってシンプルな方法だったのですが、それがデジタルの掲示板に変わり、大当たり回数のみならず回転数や出玉数などまで分かるようになってきました。
そして、現在はそれら台の大当たり情報がスマホで確認できるというのですから大したものです。わざわざ閉店間際の店に行って、その日の大当たり回数をチェックしていた昔が懐かしいです。
また、画期的な変化として、 昔は大当たりすると出玉はドル箱へと移して、いっぱいになると店員を台上部の呼び出しランプを押して箱の交換をするのが当たり前でした。
さらに大当たりが続くと、店員はドル箱を積み上げて客席の横に積んでいき、隣の客と違いが分かるように札などを付けておくのが仕事でした。
そして、ドル箱が通路いっぱいになると、メイン通路に移動して目立たせるように積み上げるのでした。
現在でもジェットカウンターがついてない台でそういう演出をしている店がありますが、昔の出玉を知っている人間にとっては寂しく見えるものです。
そして、今度登場するスマートパチンコなどは玉に触れることなく、完全に台の中だけで行き来するようになるというのですから、もはやゲームのパチンコと変わらないのではないでしょうか。
業界の変化
パチンコ業界もこの30年で大きく様変わりしました。
それは、業界が変えたというより、規制が入ったりその他、様々な社会問題などが起こり、変わらざるを得なくなったという部分が大きかったのでしょう。
30年前は、まだパチンコに対する規制がなく新しい業界だったのですが、メジャーになると様々な規制や海辺などが入り、よりポピュラー2 人が遊べるようになっていることです。
しかし、それは同時に尖ったところはない緩やかなものへと変化していき、全てが同じようなものになることで、つまらなくなるという性質を持ちます。まあ、そうなるともう、黄金期が過ぎて、安定期、そして衰退期に入ったことを意味するのかもしれません。
最後に
どんな業界でも変化の波は訪れて、それに対応しながら生き残っていかなくてはなりません。しかし、パチンコ業界に関して言えば、その変化は著しく、お客にとっても、ついていくのも大変な業界です。これも三店方式を始めとした、パチンコはギャンブルではなく遊戯だという、歪みみたいなものが、いびつな形として表れているからではないでしょうか。ともかく、今後もパチンコ業界の変化には目が離せません。